お教室が軌道に乗るまで

お教室が軌道に乗るまでには、時として長い時間が掛かることがあります。特に異国の地ではかなりチャレンジング。私の場合、学生の頃から教えはじめ、これ以上生徒さんを取れないと言う状態まで成長したのは、お教室を開いて7年してからでした。


ここでは、アメリカでの学生時代からスタジオを立ち上げるまでの経緯、そして成長に至るまでの過程を、いくつかの記事に分けてご紹介したいと思います。少し長くなるかもしれませんが、この経験がどなたかの参考や励みになれば幸いです。

自由な生活

2003年にウェスタンワシントン大学で修士号を取得後、大学からお誘いをいただき、伴奏員として働きながら次の大学院を探していました。

それは、これまで経験したことのない自由な一年間でした。昼間は大学で伴奏の仕事、夕方からは和食レストランでサーバー1として働き、その後、夜中の2時まで学校で練習。さらに練習仲間の友人3、4人とダイナーに繰り出し、チーズフライとコーヒーを片手に朝までおしゃべりを楽しむ日々。まさに音楽三昧、練習三昧、そして友達三昧の最高

博士号は東海岸の大学や音楽院を視野に入れていましたが、まずは近くの学校に挑戦してみることに。シアトルにあるワシントン大学の試験を受けた結果、幸運にも合格し、奨学金もいただくことができました。ピアノ科の先生方はどなたも素晴らしいピアニストで(歌や楽器の教授陣も最高の顔ぶれでした!)、その中でもクレイグ・シェパード先生の門下生になることを決めました。こうして、ワシントン大学でDoctoral Studentとしての生活がスタートしました。

学生兼ウェイトレス兼ピアノ講師

最初の1年間、奨学金だけでは生活費を賄えなかったため、友人の紹介で寿司レストランのサーバーとしてアルバイトを始めました。アメリカのサーバーはチップが主な収入源で、閉店後にはそれぞれがチップを数えるのが日課でした。人気サーバーたちの成果は本当にすごく、彼らの接客方法を観察して真似をしてみたり、お客さんの様子や性格を見ながら声のトーンを変えてみたりと、工夫を凝らすのが楽しく、まるでゲームのようでした。ピアノの練習とは全く違う世界に触れ、新鮮でワクワクする経験でした。

仕事に慣れるにつれて、一晩で100ドル以上のチップをいただけるようになり、一度だけトップサーバーより多くのチップをもらえた時には心の中でガッツポーズをしました。多くの人と接し、それぞれのニーズに応えるこの仕事は、後に大勢の生徒さんや保護者の方と向き合う際にも大いに役立つ、貴重な経験となりました。

一方で、本業のピアノでは伴奏やソロ演奏の活動をしており、友人や先生の紹介でパーティーや老人ホームで演奏する機会をいただきました。中には驚くほどの報酬を提示していただくこともあり、貧乏学生としては大変ありがたかったです。しかし、それ以上に、学生ながらも演奏家として認められる喜びの方が大きかったことを今でも覚えています。

また、当時は数名の生徒さんも教えていました。サーバーのバイトに行く前に何件かレッスンを入れるという忙しい生活でしたが、今と変わらず熱心に指導していました。ただ、学業を優先していたため、発表会や弾き合い会、コンペティションなど、ピアノ教室らしいイベントは行えませんでした。

  1. 私は学生ビザではなくグリーンカードホルダーだったので、学生でもアルバイトが可能でした。 ↩︎

アルバイトから始まった講師キャリア

UWでの2年目に入った頃、GSA(Graduate Student Assistantship)というポジションに就きました。GSAは大学院生の伴奏者として、週に20時間音楽科の生徒たちの伴奏をし、リサイタルも受け持つ役割です。このポジションでは、学費が免除されるだけでなく、毎月の収入も得られる上、アメリカでは珍しいほど充実した健康保険や専用のオフィスも用意されていました。そのため、講師と学生の中間にいるような立場でした。

しかし、GSAとしての生活は非常に忙しく、週に30時間近く伴奏をこなしていました。それに加え、学業や宿題、自分のレッスン、さらには卒業に必要な4つのコンサートを開催しなければならなかったため、サーバーの仕事を辞める決断をしました。

当時、生徒のレッスンも可能な限り続けていましたが、リハーサルがあまりに多く、毎週決まった時間に教えるのが難しくなりました。その結果、レッスンのキャンセルが増え、最終的には生徒を教えることを断念せざるを得ませんでした。

室長に引き抜かれてしまう生徒たち・・・

GSAの契約期間終了後、友人が紹介してくれた音楽教室で教えることになりました。ここでのびっくり体験の始まりは、仕事を始めてから数ヶ月後から起こります。生徒たちはとても可愛く、楽しく教える間に段々と上達してくるのですが、目に見えて良くなってくると室長に引き抜かれるようになったのです。しかも、「OOくんは次回から私のクラスに来ます」と、室長からのメール一本で知らされるのです。

生徒に基礎を教えて、一定の期間を過ぎたら室長に預けるという契約は交わしていないので、自分が一生懸命教えている生徒たちを、準備期間もなく急に引き抜かれてしまう事に不満を覚えるようになりました。教え始めた当初、室長がもうお手上げで兄弟二人を私のクラスに送ってきました。言われるほど大変な生徒ではなく、むしろとても楽しくレッスンしてどんどんと手応えを感じ始めた頃、「自分のクラスに戻す時が来たから」とやっぱり一本のメールだけで生徒と引き離されてしまったのです。この一件で、私はそのお教室を去ることを決めました。

でも、びっくりはまだまだ続いたのです。講師としての契約時に、「辞める際は生徒を連れて行かない」という項目に署名しているので、生徒たちには個人レッスンは出来ないと伝えてありました。ですが、ある時届いた保護者からのメールによると、退会後にも室長からメールが来て、生徒たちが私に個人レッスンを受けていないか、また受けていたら訴えると脅迫されているとの相談でした。結果的に、辞めた後に一人も生徒を取っていないと、私から室長に説明をして納得してもらいました。辞めたのは正解だったかも・・・とちょっと震えてしまいました。この経験から、教えるなら自分一人でのびのびと教えたいと考えるようになりました。

卒業と共にスタジオ立ち上げ

2010年に博士号を取得する頃には、シェアハウスを出て、当時婚約していた夫と一緒に暮らし始めていました。その家には、今は亡き元ルームメートから「友情の証」として受け継いだアップライトピアノを置き、二名の生徒さんを教えていました。一人は大学生の女性、もう一人は当時5歳くらいのお子さんです。この二人との出会いが、現在のスタジオの始まりだったと言っても過言ではありません。

博士号取得後、夫の実家の近くに引っ越すことになり、シアトルから南に1時間ほどの街へ移ることに決まりました。生徒さんたちの成長を間近で感じ、「卒業後はもっと集中して教えられる」と思っていただけに、生徒さんを中途半端な状態で手放さなければならないことに悩みに悩みました。それでも、引っ越しは避けられず、ついに勇気を出して一人の生徒さんに伝えました。

「引越しすることになってしまいました…(だから、もうレッスンできないのです)」

すると、生徒さんは驚きの答えを返してきたのです。
「そうですか、それでは今後どこでレッスンしましょうか?」

全く予想外の反応に驚きました。もう一人の生徒さんも同じように、「引っ越してもレッスンを続けたい」と言ってくれました。この言葉がどれほど励みになったことでしょう。引っ越しても彼らの成長を見守ることができる方法が見つかったのです。

すぐにシアトル市内でスタジオを探し、毎週二人だけのためにレッスンを始めました。どちらかが欠席する日でも、往復2時間以上かけて通いました。レッスンを重ねるうちに、「このお教室に名前をつけて、もっと多くの人に知ってもらおう」と思うようになりました。 Rie Ando Piano Studio は生徒二人の小さなスタジオとして始まりましたが、そこから少しずつ成長を重ねていきました。


rieando

はじめまして、安東理恵です。 桐朋学園大学を卒業後、90年代に渡米。2021年に帰国。現在もリモートでアメリカ在住の生徒たちを教えています。 email: rieandopiano@gmail.com

0 Comments

Leave a Reply

Avatar placeholder

Your email address will not be published. Required fields are marked *