日本と海外半分の人生
2021年1月、夫の仕事の関係でシアトル郊外のベルビューと言う街から生まれ故郷の神奈川県に戻ってきました。思えば人生の半分をワシントン州で過ごしましたし、今ではシアトルが私にとって第二の故郷です。
ピアノは3歳の頃から弾いています。幼稚園の頃から桐朋学園大学附属の子供のための音楽教室で音楽の基礎を学び、その後音高、音大とずっと桐朋で学んできました。アメリカでは、遠回りをしましたが、ウェスターンワシントン大学とワシントン大学の二つの学校の大学院で計6年学びました。このブログでは、そんなアメリカでの学生生活や普段の事、そこで始めたピアノスタジオの事など話していこうと思っています。
モウレツに勉強した院時代
異国の地での生活は、日本とはまったく異なるものでしたが、若さゆえに自然に周囲に溶け込んでいきました。大学院ではこれまでに経験したことのない量の勉強に取り組む必要がありました。私が通った桐朋では常に音楽中心でしたので、机に向かって何時間も勉強するという経験はありませんでしたが、アメリカの大学院でネイティブスピーカーのクラスメートたちと肩を並べて勉強していくには、彼らの3倍は努力が必要だと感じ、必死に勉強しました。
勉強だけではなく、平日は4時間、週末は12時間ピアノを練習し、加えて学校で与えられた週に20時間のTAの仕事もこなさなければなりませんでした。瀕死の状態に近いような生活でしたが、若さが私を支えてくれました。その日々の中で、失敗や成功を経験し、笑いや涙に満ちた充実した時間を送れたと思っています。
学生をしているうちに段々と友達の輪が広がっていきましたが、当時は日本人の友人が一人か二人、あとはアメリカ人の友達ばかりで日本語は全く使わない日々が続きました。学校に日本人がいないのと、当時はSNSが普及しておらず、日本でのネット普及率も低かったためです。修士号も博士号も総合大学で取得したので、桐朋にいた時とはまた違う雰囲気でした。
アメリカ生活での一番のカルチャーショックは、歌が上手なのに楽譜が読めない生徒が何人かいたことでした(でもめちゃくちゃ上手いし耳が良い!)。それは置いておいて、アメリカの学生はとにかくよく勉強するのに心底感心しました。彼らは将来どうしたいかという明確なビジョンを持ち、それに向かってどうすれば良いかを若いうちからしっかりと考えているのです。小学生の頃は比較的子供っぽく、むしろ日本の小学生の方が大人びているように感じられますが、ミドルスクールからカレッジに進む間にここまで成熟していくのです。一体どこで差がつくのでしょう。
院生活で学んだのは勉強だけではない
2つの大学院を経験したことで、勉強だけでなくさまざまなことを学べたと感じています。学費や生活費など金銭面は全て自分で解決しなければならなかったし、住居や保険、車を購入したり学校の手続きなどを通して、アメリカでの生活の仕組みを少しずつ理解することができました。今では日本での生活よりもアメリカでの生活が馴染んでいるほどです。
英語の上達も大学院での学びが大きな要因です。授業や宿題、プレゼンテーションからはアカデミックな英語に触れることができましたし、そして学生たちの伴奏や友人関係を通じて、日常的に使われる言葉が自然と耳に入ってきました。また、先生方とのコミュニケーションを通じて、「敬語がない」と言われる英語でも、十分に丁寧で相手を尊重する方法を学びました。大学院での日々は辛いこともありましたし、体調が常に良いとは限りませんでした。けれど、困難に立ち向かい、成長の機会を得ることができました。自己成長を促す内なる強さを培うことができたことは、今でも感謝しています。