「本番で記憶が飛ぶ」恐怖を超えて|私を救った暗譜法
幼い頃は「練習しなくてもなんとかなる」
子どもの頃の私は、本番になるといつもより上手に弾けるタイプでした。緊張よりも高揚感の方が勝ち、普段の練習以上の集中力が自然と引き出されていたのです。むしろ、本番とはそういうものだと思っていました。今思えば、そんな自分が実に羨ましい!
幼い生徒さんは、指の動き、いわゆるマッスルメモリーに頼って覚えようとする傾向があります。そのため私のレッスンでは、幼い頃から楽譜を自分で理解しながら読めるように、年齢に合わせて楽譜の仕組みや音楽理論を分かりやすく説明するようにしています。どんなに幼くても、楽譜に書かれていることと、実際に鳴る音や指の動きを結びつけておく方が、結果的に暗譜もしやすく、ピアノそのものの上達も速いと考えています。
振り返ってみると、私自身も子どもの頃は、マッスルメモリーと本番での高揚感を頼りに演奏していたように思います。
けれど、年齢を重ねるにつれて状況は変わっていきました。
桐朋生だった頃の試験会場では、白々と光る蛍光灯、そのジリジリとした音、そして演奏中にも聞こえてくる名だたる先生方が鉛筆を走らせる音が、否応なく意識に入ってきました。そうなると、もう「演奏が楽しい!」「本番の高揚感!」などとは言っていられません。今思えば、よくあの状況でひっくり返らずに演奏できたものです。
いよいよ暗譜が怪しくなってくると、私が次に試みたのは、練習量を増やすことでした。できることをすべてやり、「ここまで練習したのだから大丈夫に決まっている」と、本番前に自分に言い聞かせるようにしました。すると気持ちが安らぎ、「何があっても大丈夫」という安心感が生まれ、どうにか乗り越えられるようになりました。
ただ、「これだけやったのだから!」と自分を奮い立たせている最中に、「いや、そんなにしていないかも」と悪魔のささやきが聞こえてくると、途端に自信が揺らぎます。本番でも尻込みしてしまい、結局、練習時間を増やすだけでは乗り越えられないこともあると気づきました。
今思えば、ずいぶん単純な考え方でした。
自動車事故
そんな中、30歳を目前にして大きな出来事が起こります。伴奏の仕事に向かう途中、運転中に事故に遭い、頭を強く打ってしまったのです。
救急車で運ばれ、病院で検査を受けた結果、首にも頭にも異常はないとされました。頭を4針縫っただけで、その日のうちに帰宅となりました。実にアメリカらしい!日本だったら絶対入院です。
その翌週には別の伴奏の仕事で本番に臨みましたが、演奏中ずっと頭がぐわんぐわんと揺れるような感覚が続き、途中で気を失いそうになりました。
この頃から、本番のときだけ、それまでとは違う病的な緊張に襲われるようになりました。どれだけ練習しても、舞台に立つと暗譜が突然ばっさりと飛び、そこから戻ってこられなくなることがあったのです。
当時は6時間から12時間の練習が日課でしたが、事故以来、何時間練習しても本番中には必ず記憶が飛ぶ瞬間が訪れ、「また飛ぶかもしれない」という恐怖が心を支配していきました。
事故が直接の原因だったのかは分かりません。ただ、私の中では、事故の前と後で舞台に立つときの感覚が明らかに変わってしまいました。
コンチェルト2曲との数か月
事故から数年後、ワシントン大学の博士課程の一環として、コンチェルトリサイタルに向けて、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番とモーツァルトのピアノ協奏曲第20番という二つの作品を勉強していました。
準備も整った頃、リサイタルとは別にコンチェルトのオーディションがあり、私は自信満々でプロコフィエフを選び、エントリーしました。その頃には、何があってもうまく弾けるという自信があったのです。
しかし、本番で思いもよらないことが起こりました。
ある箇所で突然暗譜が吹き飛び、頭の中が真っ白になったのです。立て直すことができないまま、演奏を終えてしまいました。
あの悔しさといったら……。なぜ、あんなところで記憶が飛ぶのか。意味が分かりませんでした。練習して、分析もして、何十時間も弾き込んだ作品であるにもかかわらず、です。
今まで経験したことのないようなショックでした。何が起きたのか自分でも理解できないまま、やっと部屋を出て、建物から出ようとしたときには、腰が抜けたように歩けなくなりました。その場にへたり込み、大泣きしてしまったのです。
いやはや、恥ずかしい。でも、「頭が真っ白になる」とは、まさにあのことでした。
同門ピアニストから学んだこと
悔しさとショックが残る中、数か月後、別のオーディションに挑戦することになりました。
その頃は伴奏の仕事と勉強でソロまで手が回らず、エントリーするかどうか迷いました。しかし、それまでの練習の蓄積があったため、短期間でも仕上げられると判断し、一か月しかないものの、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番をもう一度勉強し始めました。
大好きなモーツァルトの作品をオーケストラと一緒に演奏できたら、どんなに素敵だろう。そう思い、オーディション当日まで、時間の許す限り練習を重ねました。
このオーディションで伴奏をしてくれたのが、後に私の暗譜法を大きく変えることになる、韓国人ピアニストの同門生でした。
彼はものすごくピアノが上手で、いくつものコンクールで入賞していました。ただ、正直に言うと、最初は少し苦手なタイプでした。自信満々すぎて、ほかの生徒の演奏に対するコメントも結構きつかったのです。そのため、ほかの同門生たちと比べると少し話しにくく、挨拶程度しかしていませんでした。
けれど、オーディションの伴奏を任せるなら彼しかいないと思い、思い切って頼んでみました。すると彼は快く引き受けてくれ、リハーサルを重ねるうちに意気投合し、いろいろな話をするようになりました。
そこで話題になったのが「暗譜」でした。
あれほど自信家に見えた彼も、実は暗譜の失敗に長年悩んでいたことが分かったのです。「まさか、あなたが?」と耳を疑いましたが、彼の悩みは、私が経験していた暗譜飛び以上に深刻なものでした。
彼はそのことを、当時師事していた著名なピアニストに相談し、ある方法を教わったそうです。そして、その方法を私にも教えてくれました。
「この方法が僕の人生を変えた。君もやるべきだ!」と。
頭に鍵盤を浮かべる暗譜法
彼から教わった方法は、シンプルでありながら、非常に強力なものでした。
頭の中に鍵盤を鮮明に思い浮かべ、実際に音を鳴らすつもりで、すべての運指を確実に思い浮かべながら頭の中で演奏する。完璧に弾けるようになるまで繰り返します。
止まった箇所や曖昧だった箇所は楽譜に戻って確認し、そこだけをもう一度頭の中でゆっくり繰り返します。確実に弾けるようになったら、少しずつテンポを上げていきます。
方法としては、ただそれだけです。でも、実際にやってみると、とても難しい。
初めて試したとき、「完璧に覚えている」と思っていたモーツァルトの曲が、頭の中では所々で止まってしまうことに気づきました。内声が曖昧だったり、左手の和音が思い出せなかったり、運指が分からなくなったりするのです。そうした箇所にくると、頭の中に浮かべていた鍵盤や自分の手のイメージまで、急に霞んでしまいます。
しかも、それは間違えやすく、何度も練習を重ねた箇所ではありませんでした。むしろ、いつもは軽々と弾いているスケールやパッセージ、簡単な左手の伴奏などでした。
これは、非常に衝撃的な経験でした。
プロコフィエフも、この方法で準備していたら、あの失敗を防げたかもしれません。少なくとも、自分でも気づいていなかった暗譜の曖昧な箇所を、本番前に見つけることはできたはずです。
この方法のよいところは、ピアノがない場所でも気軽にできることです。ちょっとした待ち時間、ベッドに入ってから、カフェで過ごしているときなど、本当にいつでも、思い立ったときに取り組むことができます。
練習中にこの方法を試し、頭の中で弾いた箇所を実際に鍵盤で弾いてみると、これまでとは違う確かな手応えがあり、演奏に向かう意識そのものが明らかに変わりました。視野が急に開け、音楽が頭の中にくっきりと浮かび上がり、深く定着していくのが分かりました。その感覚は、今でも暗譜に取り組むたびに戻ってきます。非常に気持ちがよく、内側から自信が湧き上がってくるような感覚です。
この方法を取り入れてモーツァルトを練習すると、結果は大成功でした。久しぶりに暗譜ミスへの恐怖を感じることなく演奏でき、練習中に思い描いていたことを出し切ることができました。そして、コンチェルトのソリストに選ばれました。
この暗譜法を試すにあたり
ここまでご紹介した暗譜法は、ある程度ピアノの経験が長く、鍵盤上での手の動きや運指が身についている方の方が、効果を感じやすいと思います。
そのような方で暗譜にお困りでしたら、ぜひこのブログを閉じたあと、すぐにでも試してみてください。
今、ピアノのない場所、例えば電車や待合室でこの記事を読んでいるなら、ワンフレーズでも1ページでも、現在勉強している曲を頭の中で演奏してみてください。音、運指、リズム、フレージング、アーティキュレーション、強弱、そのすべてを頭の中で再現します。
何度試しても完璧に再現できたなら、自信を持ってください!
もし途中で「あら?」と分からなくなってしまっても、慌てる必要はありません。楽譜を見直し、その部分を意識しながら頭の中で何度も繰り返せば、少しずつできるようになります。
お子さんの場合、頭の中に鍵盤を思い描いて演奏するのは、まだ難しいかもしれません。そのため、普段の練習の中で、リズムや音程のモティーフを探して関連づけたり、どのような和音が伴奏に使われているのか、何調で書かれているのかなど、楽譜に含まれている情報を少しずつ理解したりするのがおすすめです。
また、曲を部分ごとに暗譜したり、左手だけを弾きながら右手のパートを歌ったりする練習を重ねると、覚えた内容が頭に定着しやすくなると思います。
ぜひお試しください!